経済的な面で周囲から秀でており、軍備も整えている「大国」が「小国」に比べて「外敵」への対応力が遙かに優れていることはまず間違いありません。勿論、交渉や戦争が単なる物量のみによって決着されるとは限りませんが、余力があり、直接的な「力」で強引に事を進める可能性を持っている者が有利な立場にいることも明らかと言えます。そして、外部からの脅威に怯えながら生活する必要のない「大国」の民衆が、常に「同盟」を求め、存続するためにも外交に気を配らなければならない「小国」の住人よりも「幸せ」であると言えるかも知れません。実際、多少の不満はあるものの、安穏と暮らしていける「大国」での環境と場合によっては戦乱に巻き込まれ、安定した生活が保障されていない「小国」の状況を比較すれば前者の方が「優れている」と思えるのではないでしょうか。
内部に目を向けた場合に関しても、当然ながら、多くの人が高い水準で生活し、経済も豊かである国では、発生した様々な問題への迅速な対応も可能であり、民衆を「護る」事が安易であるとも言えます。例えば、自然災害が発生した場合、備えていた「専門」の人員を大量に投入できれば、被害を最小に留める事が基本的に可能であり、その事が更なる向上に繋がるとも言えます。それに対して、人員を「備える」事が元より困難である「小国」では「専門家」がいない以上、適切な対処も遅れてしまい、被害が拡大し、その後の生活も自然と苦しいものになってきます。
しかし、その「大国民」の「幸せ」というモノも飽くまで「外敵」の存在があって、常に他国と対照しながら自国の状況を認識している場合に限られているようにも思えます。そもそも、外部からの干渉を受けず、内部にだけ意識を向けた場合、人が多ければ多いほど様々な内部の問題が発生します。様々な「階級」で生活している人間の各々の欲求や要求、人々の意見、思想、宗教などは国の大きさに比例して多面化してきます。
最初から意見が多面化するほど多くの人間が住んでおらず、生活習慣も大して違わない「小国」では、多少の齟齬があったとしても「妥協」を求めることは簡単であるはずです。また、少数が賛成できなくても「例外」を認めることも混乱に繋がる心配もないため、基本的には問題ありません。そして、人々が持ち込む相反する意見も少ないため、純粋に「生活」に専念することが出来るように思えます。
しかし、個人の利益を上げるために税率の引き下げを求める者、国の為に税率の引き上げを求める者、「安全」のために民衆の監視を強めることを求める者、「自由」のために法律の縛り付けを緩和することを求める者等と、「大国」では全く相反する要求が登場するのは当たり前のことと言えるかも知れません。その上、異なる地域に住んでいる人間にとって、異なる「条件」が必要となるのも十分予想できますし、それらの人々の多様な要望を考慮した上で「規則」が作成されることになります。
しかし、妥協に妥協を重ね、過程によっては現実世界での人々の要求とは掛け離れたモノになってしまった「法律」は本当に役に立つモノなのでしょうか。また、「大国」であるが故に、「例外」を認めてしまえば、次々と追従する者が現れ、混乱を招く恐れがある以上、「法」は厳しく執行されなければなりません。そして、縛り付けられた民衆が本当に「幸せ」であると言えるのでしょうか。
言い換えれば、「大国」は主に外部からの比較でしか存在しない「威厳」を得るために国民に対する柔軟性を代償にし、「生活」ではなく、「見栄」を最優先にしているとも言えるのでは…。
テーマ:雑記 - ジャンル:政治・経済
- 2008/05/09(金) 23:59:59|
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小国・大国 (3) |
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小国・大国 (1)>>
vanさん、こんにちは〜♪
yuirinには少し・・難しい・・・(笑)だから3回くらい読み返しました〜
でも最後の「大国」のまとめ・・・まさにそう言えると思いました。
「大国」でyuirinは米国と中国を思い描きましたが「大国」でありながらまったくかけ離れた
政策や国のあり方。
でも突き詰めて考えたらある意味目指すところは同じ?
国民もですけど「世界平和」ってなんでしょうか。
ちょっとずれていたらごめんなさい。。。
- 2008/05/10(土) 12:55:12 |
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- yuirin #6b6xNqCs
- [ 編集]
確かに、言われてみると表現が不必要に回りくどいような気がしてきました…。善処いたします。
実際、米国やロシア、中国を見ると、主義や政策、基本方針はまちまちではあるものの、常に「権力維持」または「拡大」に専念していて、「選挙」以外で国民の存在は大して気にされていません。
新聞などでは頻繁に各国がその国家元首によって表されていますが、「国」を欲の塊である一人の人間として認識することも決して間違ってはいないのではないでしょうか。
- 2008/05/11(日) 00:15:47 |
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- van malus #NLUE0dWE
- [ 編集]
どうもこんばんは。
んーと。こちらで挙げられた大国・小国のそれぞれのメリット・デメリットは、別に大国特有・小国特有、というものではないんじゃないかな、と感じますが、如何でしょう。
簡単に切り分けて考えるのは、大づかみに理解するには便利ですし、有効な部分もあると思いますが、二項対立をあまりに強調してしまうと微妙なところだと思います。
またお邪魔します。
- 2008/05/14(水) 03:49:41 |
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- 俊也 #JalddpaA
- [ 編集]
確かに、「大国」・「小国」であるからと言って、基本的とも言える人間の態度や要求が変わるわけではありません。また、「国」の「大きさ」というものも何を基準にするべきか、と言う問題も当然発生します。
しかし、「小国」で浮き彫りになる問題と「大国」でなければ発生しない対立や反応は確かに存在するのではないでしょうか。そして、必要以上に強調することではなくとも、まずは事態を単純化しなければ、そこから発展する複雑な状況も整理できなくなるのでは…。
- 2008/05/15(木) 00:34:56 |
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- van malus #NLUE0dWE
- [ 編集]
大国・小国の基準もそうですが、どこまでが小国でどこからが大国といえるのかという境界も明確でありませんね。
そもそも二項対立というものは中間の存在を許しませんから、論が極端になるのも仕方がない。
小さくて単純な事件から大きくて複雑な事件へ発展する、という解釈は、その事件が一通り片付いてからしか下せない判断でしょう。デカい問題から入り、文脈をたぐって細部に行く、という一方通行だけですと、権威ある意見に従うだけの読解になりかねません。
本来目の前には、絡まりあった事実が山積しているだけで、「多くの事実をつなぎ合わせて考える」という過程を通る事で、より大きな問題を想定できるんじゃないでしょうか。
単純化というのは、そのつなぎ合わせ方を出来る限り合理的に整理したもので、枝葉末節を最初から無視している。
もちろん、ある問題を理解しようとした時に必要になる過程だとは思いますが、それを提示する際、他の可能性や他の見解・批評などもあることを示した方が良いのではないでしょうか。
読み手によっては、「こんな簡単な問題だったのか」と誤読する方も居るかもしれませんよ。
- 2008/05/16(金) 03:17:19 |
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- 俊也 #JalddpaA
- [ 編集]
仰るとおり、物事を単純に扱いすぎてしまうと、誤解を招く危険性は大いにあります。実際、世界を「白」・「黒」の二色で見てしまえば、個人的には生活は非常に簡単になり、見通しも良くなりますが、同時に不必要な軋轢が生じるのは確かです。
しかし、個人的な「欲」や「利益」と言った、万人に理解される、単純とも言える背景を複雑な理屈で覆い、正当化を行うのは在り来たりとも言える現象であるように思えます。つまり、不用意な単純化は当然ながら非常に危険ではありますが、物事を不必要に複雑に見る必要性もないように思えます。
そして何よりも、状況を単純化したからと言って問題が解決されるわけではありません。例えば、他国へ侵入した動機が複雑に正当化されたモノから単純なモノに変わったからと言って、その出来事が帳消しになるわけではありませんし、公の場での議論が可能になるわけではありません。
物事を極端に単純化した「極論」というモノは日常生活では殆ど通用しないのは明らかです。しかし、通用しないながらも思考の原点になり、発想の基盤として認識することは出来るのではないでしょうか。他の見解が幾ら重要であっても、自らの立ち位置、またはその原点が分かっていなければ意味がないのでは…。
- 2008/05/17(土) 01:11:18 |
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- van malus #NLUE0dWE
- [ 編集]
えーと。誤解があるようで。
物事をむやみに複雑に述べて煙に巻け、と言っているのではなく、現実がすでに複雑なのだ、と思うんですが。
「単純とも言える複雑な理屈」をマトモな人間がのたまうとき、出来る限り正確に・誠実にその物事を表現しようとするあまり、限定がかかりすぎたり、新しい言葉をあてたりするために、門外漢には複雑に見えるだけ、という場合が多いです。
必要だから、回りくどいようにも見える言葉を山のように積み上げるんです。それを簡潔に説明されると、門外漢でも納得はいきますが、正確な理解からは離れます。
まぁ。テクストは読者のものだ、と言われればそれまでな話ですけど。それでも書き手は誠意を尽くした方が良いんじゃないでしょうか?
自分の立ち位置を決める際、必要なのは概念なんですか? 立場なんてものは相対的で、それを決めるのに必要なのは他者じゃないんですか? そもそも自らの原点て、概念なんですか? 他者の概念、他者が現実を定義した言葉なんてものは、自分にとってはただのファンタジーだし、自分の概念を形作り得るのは、自分の個別の経験ではないのですか?
概念を思考の原点とした時点で、現実から遊離しますよ?
あー、もののついでですが。「物事の単純化・抽象化=極論」じゃなくて、「物事の単純化・抽象化=概念」ですよ。
- 2008/05/17(土) 16:48:12 |
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- 俊也 #JalddpaA
- [ 編集]
より多くの言葉を使い、細部まで説明すれば読み手もより正確に理解できる事は確かです。しかし、細部まで手の込んだ論法を用いることは同時に書き手が読み手に自らの解釈を押し付けることにもなるのではないでしょうか。勿論、「理解」と「同意」には大きな違いがありますが、反論の余地がない論調は「対話」ではなく「講釈」になってしまうようにも思えます。もっとも、読み手により理解されることに誠意を尽くす方が良いに決まってはいますが…。
また、現実を無視した「概念」にのみ縛られた思考は現実から遊離しますが、「概念」を持たなければ現実を「説明」する事も不可能なのではないでしょうか。つまり、自らが構成した「概念」を他者に正確に伝えることが出来なくとも、対話を行う際、それらを共通の言語に「翻訳」する事が必要とされるのではないでしょうか。そもそも、現実を事前に多少なりとも定義し、理解しなければ他者との意見交換も不可能なのでは…。
そして、もののついでですが、「物事の単純化・抽象化=>極論」と同時に「物事の単純化・抽象化=>概念」であるとは思いますが、逆、つまり「=」は成り立たないのではないでしょうか。
度々有意義な意見を有り難う御座います。是非、今後とも宜しくお願いします。
- 2008/05/22(木) 00:36:34 |
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- van malus #NLUE0dWE
- [ 編集]
もともと、ある主張をするには、どうしても一面的にならざるを得ない場合があります。しかし、それを押しつけと呼ぶのは、ずれてはいませんか? 主張である、という時点で、誰かに同意を求めることを目的としたものなのではないでしょうか?
少なくとも僕が知る限り、同意を求めない主張は、ダダイスト宣言だけなのですが。
物事を整理する際の過程をすっとばして、概念だけを抽出して提示する方が、余程話者の概念の押し付けになるとはお考えにならないのですか? こういうネット世界では、批判的な読み手は非常に少ない。鵜呑みにし易い人を相手に、「これは、こういうこと」と安易な説明を提示して良いものでしょうか?
過程を丁寧に積み上げることによって、論理の道筋が明確にした方が、読み手はその概念化をする際の陥穽を指摘し易くなる、疑問を持ち易くなると、僕は思いますが。
確かに、恣意的に論理もどきをやられると、騙される人が居ますけどね……。
それでも、真摯な議論と論理もどきは区別されるものではありませんか?
>概念によるコミュニケーション
おっしゃる通り、ある程度は物事を概念化して解釈した上でなければ、他者へその解釈を伝達するのは不可能でしょう。その過程を経なければ、ただの無意味な音の羅列に堕する。(言語なんて厳密に言えば総て概念ですし、そもそも、コミュニケーションは誤解が前提ですけどね)
>思考の原点
ここでは「言語」という一番基本的な概念よりも、「物事に与える関連性等」という大きな意味での「概念」について、という前提でお話しします。
そういう意味に於いては、確かに「概念」は物事を解釈する上で、ある事物を包括的に指す為に必要となるのは理解できます。
しかし、「自分が物事を解釈する際の原点は、『概念』である」とは言い難いと思いますが?
van malus様の思考の原点は、どのような「概念」なのでしょう?
>定義付けと概念化
論を展開する際に、定義付けは重要です。しかしそれは概念化とは違います。
語の定義付けは、より厳密な説明を目指す為のものであり、またその論の中ではその語が最初に定義した意味で使われる事を示すもの。
概念化は、ある事物を関連づけて包括的に呼ぶための過程であり、往々にして例外を含みます。その点を鑑みると、例外を無視する暴力的なもの、と取れる場合さえあります。
>「物事の単純化・抽象化≠概念」
あははー。嫌いじゃないですよ、こういう皮肉。ただ、韻を踏むだけじゃない、スマートな皮肉の方が好みですねぇ。
確かに、「物事の単純化・抽象化=概念」は僕の誤りです。認めます。
しかし、極論は「物事の単純化・抽象化」と呼べますか?
たしかに、概念も恣意的な産物であるからには、極論と似た性質を含んでいるとは思いますが、ほんとうに同列に扱って良いのですか?
とか何とか言っているうちに、自分の中で「概念」の意味がゲシュタルト崩壊を起こし始めましたので、ここで失礼します。
抽象的な話に終始してしまい、申し訳ありません。
それでは。
- 2008/05/23(金) 02:37:06 |
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- 俊也 #JalddpaA
- [ 編集]
確かに、主張を展開させるもっとも大きな目的は他者に同意されるところにあると思いますし、その主張を論理的に導き出すことが大切であることに間違いありません。しかし、安易な説明でも簡単に鵜呑みにする可能性のある相手にもっともらしい道筋を見せ付けて納得を促すことは決して難しくないように思えます。
そもそも、ネット社会に限らず、人は特に自分が関心を持っていないことは大した疑問もなく受け入れる傾向があるように見えます。実際、害のない主張を「信じた」ところで何等かの変化が訪れるわけではないので、最初から思考を働かせたくない人間は適当に取り繕われた論理を提示されてしまえば降参の意を兼ねて同意してしまうのではないでしょうか。
それならばむしろ、道筋の概要しか示さず、直接最終的な主張を突き付けた方が効果的であるように思えます。正当性を訴える論理が存在しなければ、少なくともその「結論」を前に直感的な反感を抱くことは可能です。つまり、過程を丁寧に積み上げることは確かに書き手の「義務」と言えるかも知れませんが、それは最初から疑問を持ちたい相手にのみ有効であり、それ以外の人にとっては返って目眩ましに見えてしまうのではないでしょうか。
勿論、「思考の原点」とやらは人によって変化しますし、一概に言えるわけではありません。直接「翻訳」出来る訳ではありませんが、少なくとも自分は全ての思考に「論理」もしくは「条理」を求めます。また、「解釈の原点は『概念』である」と言った場合、解釈を行うために物事を形容する必要が生まれ、そのために『概念』が必要とされていることになるように思えます。つまり、特定の『概念』ではなく思考の道筋を解明するための複数の「概念」が「原点」となっているのでは…。
「定義」と「概念」に関してはその差は明らかであるとは思いますが、個人的に(言葉に出来なくとも)「概念」を持っていなければ「定義」も行えないように思えます。ユークリッドがその昔「点」を「定義」した際、その「概念」が明確であるにも関わらず、表現は「部分を持たないもの」と今一なモノになったのと同じ様に、論を構築する基盤にはなるものの、その場その場に適応が必要とされているのではないでしょうか。
それから、「極論」は「無駄」(と言うよりは個人的に不必要)と思われる部分を全て省き、物事を単純化したモノであり、個人的な都合に添って「抽象化」を施したのに対して、「概念」がもっと具体性に欠けるモノである以上、同列に扱えるモノではありませんね…。しかし、発端が似ているため、純粋な「数式」としては成り立つのでは…。
今後はスマートな皮肉も言えるように努力いたします。
それでは。
- 2008/05/29(木) 07:41:16 |
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- van malus #NLUE0dWE
- [ 編集]
まず。簡単に「これはこうだ」と主張する事自体が、自らの正当性を訴えている、という事は合意できましたね。
それを単純に過程を省いて言ってしまうこと、これも十分に強制的で強権的で相手に鵜呑みさせる力を持っている事はご存知ですね? 特に、社会的に肯定されているけれど、実際には何の事だか明確に理解されているか疑わしい「倫理的なこと」を振りかざされたら一発でオシマイですよねー。
それに対し、論理過程を明確化した場合、どうでしょう? 真面目に読まなきゃ、上記の「過程を省く」と同程度の効果だと思われます。七面倒くさい理論は読まずに結論だけ読む人は多い。「長い説明がついてる分、すごいのかもしれない」という感覚の程度の差しかないと思いますよ。
それに、前回も申しました通り、煙に巻く為に論理づけろ、というのではなく、読み手に誠意を見せ、論理をより良くするために論を積み重ねて欲しい、と言っているんです。論証をしながら自家撞着に気づくかもしれないし、少なくとも、多くの人間に見られている限り、いい加減な論理を展開して目くらましをしたところで、誰かにその論理の弱点を突かれる虞は幾らでもあるはずです。
面倒で長い論でも、真面目に読みゃあ、「結論はイイ、でも過程が変だ」とか「過程はイイけど、結論が曲がってる」とか、持てる感想の幅が圧倒的に増えます。受動的だった読み手が批判的にもなれるかもしれません。逆かな、真面目な論証をしたものを読みまくらないと、批判的にもなれない。結論だけ提示されるものばかり読んでいたら、読み手は鵜呑みするままだと思います。
あなたが社会の問題等に目を向けない人を忌み嫌うからには、少しでも読み手を批判的に考えさせる幅を作れる文章をお書きになったら宜しいでしょうに。
えー、いい加減直接的に申し上げます。
もっともらしい筋道を見せつけて納得を促している、それはあなた自身である、と感じたから僕はあなたを批判したのです。
あなたは安易に説明を省くと同時に、もっともらしい論理を無邪気に並べて文章を運びます。社会が「正しい」とする物事を、読み手が「共有している」事を前提に文章をお書きになる。その論理の道筋が、あまりにも杜撰すぎると僕には感じられたのです。その社会的に「正しいこと」という前提は、どの程度の強度なのでしょうねぇ? 突っついてみたい……。
何故、しっかりとした論証を積み上げないのに、安易に「こうなのでは?」と提示できるのですか? 何故、主張であるにもかかわらず、反語とも取れない疑問系で終わる文章を書かれるのですか? その疑問系で終わる文の真意は、「こういうことである」という断定なのではないのですか? だとしたら、なぜ断定で書かないのですか? 批判を恐れているのですか?
>「解釈の原点は『概念』である」と言った場合、解釈を行うために物事を形容する必要が生まれ、そのために『概念』が必要とされていることになるように思えます。以降数行について
「原点」、pointやoriginという言葉からして複数形は無理なのですけれど?……ま、それには目を瞑りましょう。言葉遊びに堕しているなんて言われたくありませんからね。
しかし、絶えず変化するもの、一概に言えないもの、それらは本当に「原点」と呼べるのですか?
そして、「思考の道筋を明らかにする」ものは、概念ではなく解釈ですよね。引用したあなたの一文からは、「物事を考える原点は、概念ではなく解釈であり、解釈を形容する為に概念を創る」→つまり「概念」は道具に過ぎない、という事が読み取れますもの。
さらに、あなたはまだ僕に対して、あなたの思想の原点を明示していません。
繰り返し問います、「あなたの思想の原点となる概念とは何ですか?」。この際、幾らでも挙げてください。面白そうだから。
ついでに、もう一つ質問。僕は以前、倫理の原則は三つあり、それは自由・正義・幸福だ、という風に学んだ事がありますが、あなたが第一に持ってくる原則は、自由・正義・幸福のどれですか?
この質問に関しては、この三つ以外の原則でも構いません。あなたの思想の軸となるものを教えて頂けたら、嬉しい。
>「定義」と「概念」に関して
僕の「語の定義付け」を読まれましたか? 僕は、言語という最小単位の概念(つまりあなたの言う「点」)を除いた「概念」について論じたはずです。故に、ユークリッド云々は無視しますよ?
「概念」は言葉によって説明され得ます。だから百科事典も成立し得るんじゃありませんか?
その場その場に合う使い方をする場合、まずその概念を定義づけてから論を展開しなければ、概念の「自明性」とやらにあぐらをかいた、ただの目くらましか、概念の恣意性に振り回されているか、のどちらかじゃありませんか? その場その場で姿を変えるような言葉を軸に論を展開するなんて、詭弁じゃありませんか?
>極論と概念
発端が似ていれば、同列に扱っても良いのですか? 人間と猿は? 人間と他の脊椎動物は? 人間と微生物は? みぃんな、発端は一緒ですよ? 同列に扱っても良いのですか? ああ、同列に扱おうという博愛主義者もいらっしゃいますが、彼らも微生物を踏んづけ、植物を喰い、他の生物で生体実験された薬物を使って生きていますから、明らかに同列じゃありませんねぇ〜。
……ははは(自嘲) ↑こういうのを極論というんですよ。大人げなくてごめんなさい。
無駄を省いただけでは極論になりません。それは要約です。概念との相違を決めるのは、恣意性の強度と共有不可能性だと思います。
極論は他者と共有できない可能性の強いものですが、概念は二人以上の人間の間で成立してるものではありませんかねぇ?どうなんでしょ?
>数式
発端が「似ている」では、イコールや不等式でつなぐ事は出来ませんよ。極論が概念に含まれているという訳でもない。「似ている」という事は、同時に「同じではない」「別々のものである」という事を示すのですから。また、発端が似ているだけで方向が違えば、それぞれの線をずーっとのばした先では、二者の間はとんでもない距離になる。だから、不等式でもつなぐ事ができない。むしろベクトルっぽい。
だから、数式としてつなぐのも難しいんじゃありませんか? 無理に数式にこだわらなくても良いじゃないですか……僕、数学苦手なんですよー。
ま、結局は極論も概念も、具体性には欠けますよ。結局、極論も概念も、あなたの仰る通り『「抽象化」を施した』ものですし。
>スマートな皮肉
とーっても期待してます。それはもう。楽しみだー♪
美しい論理と、痛烈でスマートな皮肉と、狂気的な言葉が、僕の好物なんで。
できれば、僕もそういう皮肉が言えたら良いんですがねぇ。性格でしょう、つい直截的に言ってしまう。好戦的ですみません。ダダっ子でごめんなさい。
それでは。
- 2008/05/30(金) 01:11:30 |
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- 俊也 #JalddpaA
- [ 編集]
もう一度読み返して、嗚呼また脱線してしまったと反省すると同時に、さらに疑問がいくつか出てきましたので、追加してお訊きしても宜しいでしょうか?
>5/17のvan malus様のコメント
「個人的な「欲」や「利益」と言った、万人に理解される、単純とも言える背景を複雑な理屈で覆い、正当化を行うのは在り来たり……(後略)」とありますが、個人的な欲や利益というものは、万人に理解されるんですか? むしろ個別的で誰にも理解されなかったり、対立し合っていたりしてはいませんか?
根源的な三大欲求云々、ですら、怪しいとは思いませんか?
例外は常につきまといます。ただし、それらは拒食症や不眠症等の病気として扱われる範疇へ行ってしまいますけれど。それでも、人間として生きていて、三大欲求以外の欲求の方が優先される場合がある、という事例である事に変わりはありません。
万人にとっての利益、なんてものは、そもそもどんなものなんでしょう? あちらが立てばこちらが立たず、だと思いますよ。
同じコメントのもう一箇所、「単純化したからと言って問題が解決されるわけではありません。(中略)公の場での議論が可能になるわけではありません」。
確かに、その通り。公の場での議論では、尚のこと、安易な単純化は批難され、論証を積み上げる事が要求されます。
つまり、この部分は「物事を単純に語る自分の言説は公では通用しない」という自己否定ですか?
>5/22のコメント
「反論の余地がない論調は「対話」ではなく「講釈」になってしまう」
「これはこうだ」と単純に話す方が、講釈や説教ぽいと感じます。論の階段を省いた説明は、「親だから偉い」等の原理主義っぽい主張と同列にしか思えません。それは僕の感受性の方が変ですか?
>5/29のコメント
「正当性を訴える論理が存在しなければ、少なくともその「結論」を前に直感的な反感を抱くことは可能です」
これ、もはや論理として崩壊していませんか? 正当性を訴えない論理なんて無いだろうし、主張だけで論理がない、なんて砂上楼閣というより、もはや空中楼閣です。すげぇ。
「少なくとも自分は全ての思考に「論理」もしくは「条理」を求めます」
論理や条理を求めるのであれば、何故それをもっと緻密に追い求め、描かないのですか? 折角の美しい論理も、表現されなければ死んでしまいますよ?
もう一つ「それ(論理を積み上げる事)は最初から疑問を持ちたい相手にのみ有効であり」
議論の重要性を感じている、と仰っているあなたらしくもない。矛盾していますよ。議論は主張への疑問から始まるものでしょう? 議論の為の場所まで用意なさったのに、読者に最初からそれを求めないのですか?
さらに、このコメントでは、直前(5/23)の僕のコメント、「真摯な議論と論理もどきは区別されるものではありませんか? 」への回答がありませんでした。是非、お訊きしたいです。
ええと。今はこれくらいです。
それでは。
- 2008/06/01(日) 16:29:00 |
- URL |
- 俊也 #JalddpaA
- [ 編集]
実際、論理に「長い説明」を付ける殆どの場合、自分の結論に不都合な部分は省くなり、適度に歪曲して取り扱ってしまう傾向があるように思えます。例えば、「地球は平らである」という結論を直接人にぶつけた場合、信じる者がいるはずもありません。しかし、長たらしく論理を組み立てて、間接的にその発言を導き出した場合、もしくは明記せず、読み手自らに導き出させた場合、頷く人間も少なくないかと思えます。勿論、論理過程を明確にすれば、共感できる部分も増えるかも知れませんし、大真面目に議論をする場合、必要不可欠ではありますが、ネットで繰り広げるには些か場違いであるようにも思えます。
また、全てが比較的短時間で書き上げている記事である以上、自然と書いている最中の個人的な感情が前面に来てしまい、冷静に考えてみれば絶対に「穴」が存在します。そもそも、偶に過去の記事を読み返しても結論が微妙にずれたり、考え方が変わっているモノも少なくありません。言い訳に聞こえるでしょうが、「もっともらしい論理」には記事を書く直前に頭をよぎった事柄が付着していて着眼点も限られているものです。つまり、確かに結論は「主張」であるものの、細部まで熟考したものでないため、断定するよりは疑問として表現した方が適切であるように思えます。それから、他者の批判よりも、自分の勘違いによって生まれた明らかに間違った「断定」の方が遙かに恐ろしいです。
そもそも、文章の中で「」を頻繁に使う理由は、例えば「正しい事」や「良い事」が人によって大きく変化する表現であるからです。共有できるかどうかは確認できないが、すくなうとも自分はそう感じている、と言う一種の独白(自己満足と言っても良し)に過ぎません。
「解釈の原点」に関しては言葉が足りないのか、少し語弊が生じているように思えます。
そもそも、物事の解釈を行う場合、最初にその「物事」を理解、把握しなければなりません。単純な事柄であればさほど苦労する訳ではありませんが、複雑な状況に直面した場合、その「理解」の過程に自然と「物事」を(まずは個人的に)表現する必要性に迫られ、様々な「概念」がなければならないように思えます。そして、個人的に複数の物事を形容する「概念」を用いた上で、自分の考えをまとめ、他者に伝える過程で新たに共通(と思われる)「概念」に移し替えるのではないでしょうか。
つまり、『概念』と言う「クラス」とはこの際、「道具」であると以前に人の解釈のために必要とされる「能力」である様に思えます。言い換えれば、(多くの)「概念」がなければ現実を捉える事も、他者に考えを伝える事も適わない以上、「解釈の原点」とさせていただきました。
また、自由・正義・幸福の内から選ばなければならない場合、自分はまず最初に「自由」を持ってきますね。時代の流れのためか、「正義」は自分の中でどうしても「強者の我が儘な言い分」と同義になってしまっていますし、「幸福」は上限を知らない上、「そうでない」状況に陥らない限り認識する事が困難であるため「原則」としては若干不適切に感じてしまいます。もっとも、「正義」を「道理」に置き換えれば、自分はこの事を第一に置き換えます。
「思想の原点」として適切であるかどうかは分かりませんが、この「道理」と「自由」は不可欠であるように思えます。自分や他者の思考に必要となる「言語」と言ったものに次いで、思考と行動の中心となっている「己」、人間が生まれ持ち、動力源となっている「欲」、それに連なって「(自己)満足」、また公の言動の基礎になる「偽善」、「事実」から目を背けるために必要となる「欺瞞」もしくは「逃避」、そして「本質」と言えるかも知れない「動物」が来ます。勿論、ただ「概念」を並べただけで思想が構成されるわけではありませんし、言葉が圧倒的に足りないような気もしますが、何等かの事柄について考える場合、基本的に上記の表現が真っ先に頭に浮かびます。
確かに、「概念」の定義がなければ話を展開する事は出来ません。しかし、例えば「神」について論じた場合、それを「基督教の神」と明記したところで個人の経験や認識によってその「神」は変化してしまいますし、論が他の「神」に当て嵌まらない事を暗示している事になるように思えます。つまり、定義付けをする事でその概念に「限界」を与えただけでなく、不必要な先入観を与える可能性もあるのではないでしょうか。「姿を変える言葉」で論を展開する事は詭弁であるかも知れませんが、同時にそれだけ多くの人間に解釈される事になります。
文学で解釈される詩の場合、作者がが全ての表現を明確に定義し、意図を明確にしてしまえば面白味に欠けるものではないのでしょうか。自分が詩人であるとはとも、自分一人の頭で世の中に影響する様な壮大な「論理」を展開させる事が出来るとも思いません。つまり、ここで記事を書く第一目標は(自己満足を除き)自分の論理を誰かに共感していただく事ではなく(していただければ嬉しいですが)、人様に「この様な問題も存在するのでは」と質問し、問題を提示する事です。そして、問題を提示する場合、物事を明確にしながらも解答を限定してしまう「定義」は邪魔なのでは…。
「人間」とは唯一自分を「動物」と思っていない動物である以上、同列に扱う事が場合によって適切であるようにも思えます。ホテルの一室で半裸の女性を前にした「男」と「猿」の違いは?心肺が体への酸素配分を担当しているだけで脳が機能を果たしていない「人間」と「植物」の違いは?同じ無駄を省くのでも場合によっては「要約」にも「極論」にもなるのでは…。
勿論、「極論」を他者と共有する事は基本的に難しい事ではありますが、同時に共感すればそれ程強い繋がりもないように思えます。例えば、資本主義国家は「悪」であるという極論を唱えた過激派は大衆の共感を誘う事が出来なくとも「個人」を賛成させる事は出来ました。つまり、賛成か反対のどちらかに決まってしまい、妥協が許されなくなっただけの事ではないのでしょうか。その点、「概念」に関しては、例え他者のものとは共通しない自分個人のモノを構成しても、社会の「常識」や「教養」を通じての「翻訳」が可能になるのではないでしょうか。つまり、個人のモノであろうとも「極論」よりは安易に他者と共有できるだけだと思います。
数学に関しては、「本職」に近い(と言うよりもそのものな)ので、反論は控えさせていただきます。話が別次元に飛びそうな上、若干無意味な気がするで…。
スマートな皮肉は…精進します。自分は皮肉は言えても「スマート」からは程遠いように思えるので…。
「理解」と「共感」、もしくは「納得」の違いが存在するのではないでしょうか。誰かが武力を持ってまでしてより多くの財を求める「欲」は「理解」出来る事があっても「共感」出来るとは思えません。そして、「納得」出来ず、自分の「欲」と衝突するからこそ対立してしまうのではないかと思います。
万人にとっての「利益」とは簡単に言えば「幸福」の一種になっているではないかと思えます。、自分の成し遂げた事を見て覚える「達成感」、他者に嫉妬される「快感」それらが「利益」を追求する発端になっているのでは…。
公の場で通用させる議論を組み立てようと思えばもっと巧みに人を煙に巻くと同時に反論を全く許さない強固な論証が必要になります。また、自分も住んでいるところに爆弾を落とすような、自分も一員であるに過ぎない社会の批判はそう容易く通用しないはずです。自己否定、と言うよりは目的の違いです。自分の「論理」ではなく「問題」が大事であるので…。その点、展開しているモノに「正当性」がなく、「論理」としてそれなりに崩壊していても…まあ、余り気にしていません。
「議論」は「主張」への疑問からではなく、「問題」の認識から始まるように思えます。「問題」を認識せず、「主張」だけを対象に「議論」したところで焦点がずれてしまうだけなのではないでしょうか。「問題」を直視し、意見を組み立ててから行われる真摯な議論と、矮小な一個人が提示した「主張」を巡る単なる「言い争い」は確かに区別されるべきです。しかし、短時間で「問題」を提示し、「結論」に辿り着くために用いられる「論理もどき」は「道具」としては非常に有効なのではないかと思えます。現に話に食らいついてくる方がおられるわけですし…。
今日はここら辺で失礼させていただきます。
ではまた。
- 2008/06/09(月) 00:13:48 |
- URL |
- van malus #NLUE0dWE
- [ 編集]
>「地球は平らである」という結論を直接ぶつけた場合、信じるはずがない
のっけから素晴らしいですね。立っている感覚って、平衡的に感じられるために、数千年くらいの間は「地球は平らだ」と思われていたらしいですよ?自然科学についての知識が全く無い状態で、そういう身体感覚を共有している事を前提に「地球は平らだ」と言われりゃ信じると思いますが?
まぁ。何かを共有している事を前提に話を進めると、とんでもない方向に人を導ける好例かもしれませんね。
>大真面目な議論
同じ問題を見ていても、認識できていなければ確かに議論は始まりませんね。僕の誤りです、ごめんなさい。
しかし、主張を対象に議論すると焦点がズレる、というと、学者はみんな焦点ズレていることになりますが。先人の仮説や理論を批判し、検証し直したりする事で別の仮説や理論が立つんじゃないんですか?
で。この「真面目な議論はネットでは場違い」という論は、以前のあなたの「議論は必要である」という主張と、わざわざそのための掲示板を設置した事と、この二点において矛盾する訳ですが、そこは如何なのか、とお訊きしているのです。
このブログは文学や詩なのですか。これは一応、社会批判の体をしていると見受けられる。だとしたら、曖昧な言葉はむしろ理解の障害にしかならない。細部まで熟考もせずに、社会批判的な文章をお書きになるとは、あまりにも杜撰すぎる。独善的なただの主張だったら許せますが、社会批判を気取るからには検証くらい積む責任があると思いますが?言い逃れをするくらいだったら、時間をかけて誠実な文章をお書きになった方が良いでしょうに。
敢えて断定しないのも、責任逃れに過ぎません。間違いは気づいたら修正すれば良いだけの事だし、あなたは結論に行き着くまでに自らの正当性を主張するもっともらしい論証もどきの文章を並べている。自己正当化をしっかりした上で疑問形、これは不思議すぎる。「自分の勘違いによって生まれた明らかに間違った「断定」の方が遙かに恐ろしい」と仰るのであれば、こうした丁寧な論証を経て、それ相応の自信を持って主張して、批判を受け、そこからまた考え直せばいい。間違いは直せば、修正すれば良いだけのことではありませんか。断定されずに投げ出された文章なんて、批判のしようもない。文章として、切れ味がない。
「人に問題を提示する事」、これは既に主張ですよ?「このような問題に眼を向けよ」という主張です。そしていつも、あなたはきちんと結論をご用意していらっしゃる。それなのに何故、答えを断定するのは良くない、と言うのか判りません。
そうした問題提起をするのならば、適切な根拠を示すべきだし、解釈の過程に概念が必要だと仰るにも関わらず、あなたは概念すらきちんと定義付けしない文章しか書かない。これは何故ですか?
論理ではなく問題が大事、というのは判らないでもありませんが、論理が崩壊していても気にしない、というのが判らない。これは、無責任ではありませんか?その問題を提示するあなたは、一体何を主張したいのですか?
前回のコメントの繰り返しますが、そのもっともらしく装う論証故に、あなたの疑問形で終わる文章は、その裏に断定を孕んでいるように取れる。それなのに、何故断定しないのか。何故丁寧に論証をしないのか。丁寧な論証を拒むあなたの記事を読んでいると、それこそ自分の主張の方向へ読み手を誘導しているとしか見えない。その際、「論理もどき」は確かに道具として有効ですね。でも、これはあなたの「問題提起したいだけで結論は出したくない」と言う主張と矛盾します。論理もどきを展開し、疑問形で終わりながらも反語的に断定する結論を示しているのですから。
>「概念」について
>その「理解」の過程に自然と「物事」を表現する必要性に迫られ(後略)
やはり過程にしか概念は必要とされていないじゃありませんか。原点でもないし結末でもない。
で、あなたの仰っている「概念」は「言語」にあたるもの、つまり最小単位の「概念」なのですが?従ってあなたの言う「能力」は、言語能力。僕はずいぶん前から、その最小単位ではない、「物事に与える関連性等」という大きな意味での「概念」について、という前提でお話ししております。
ソコがズレている。
>幸福について
倫理の原則として幸福が用いられる場合、所謂「最大多数の最大幸福」です。J.S.ミルだったと思う。表記し忘れてしまい、申し訳有りません。
まぁ、そういう訳で、あなたの幸福についての論は、見当違いの方向へ行ってしまった訳ですね。
しかし。「利益=幸福の一種」。文脈からしてイコールで繋ぎ難いと思いますが。嫉妬や達成感が、何故幸福と関係するんでしょう?それに、誰にも理解されない欲は幾らでも存在するのに、無視なさるのですね。
まあ、折角面白いので此処ではつないでおきましょう。
では、「万人に理解される利益=幸福」って一体、何なのでしょうね?そもそも存在するんですか?幸福は通常、比較によって確認されるものだから、少なくとも万人にとっての幸福は確認されないでしょうにね。
>利益
「個人的な「欲」や「利益」と言った、万人に理解される、単純とも言える背景を複雑な理屈で覆い、正当化を行うのは在り来たり」と非難するあなたの言葉への疑問として「欲とは個別的ではないのか」と言ったわけですが。(第一、あなたが「個人的な欲」って書いているじゃありませんか。)
それに対し「個人的な欲や利益について、「「理解」と「共感」、もしくは「納得」がある」と仰られていますが、理解・共感・納得を得るには、正当化する理屈が必要でしょうが。「物事を不必要に複雑に見る必要性もない」と同日のコメントにありますが、詳細に見て論理付けない限り、同意を得る事は難しい。
>思想の原点
別に、三つからでなくてもよろしいのに。あなたの論に一貫性があるようにはとても感じられないので、これを提示してみただけですから。
自分や他者の思考に必要となる「言語」が三番目に置かれていますが、そういう最小単位の概念がない状態で、一番目に置いた自由や道理といった、「概念」(それらは概念の最小単位である言語から切り離されている)を表現するのは可能ですか? あなた流にいくならば、その最小単位の概念である「言語」が思想の原点なんですよね?何故一番目に置かないのでしょう。
あなたにとって、自由ってなんですか?幸福と同様、足るを知らざるものになり得はしませんか?そもそも、自由が何故倫理の基準になるんでしょうね?正義と道理の違いって何でしょう?偽善や欺瞞があるなら、その対称もあるはずですよね?それは何ですか、どこにありますか?
>自分や他者の思考に必要となる「言語」と言ったものに次いで、思考と行動の中心となっている「己」、人間が生まれ持ち、動力源となっている「欲」
空中楼閣ですね。
思考は言葉を必要とするのですか?言葉にならない思考は存在しないのですか?自分と他者の区別は何に於いてなされますか?「思考と行動の中心」と仰る己とは何者ですか?その己を保証するものは何ですか?それは本当に思考と行動の中心に坐を占めているのですか?今更デカルトはよしてくださいね、自分が自分の主であるなんて事は、とうに疑問に付されております。それから「人間が生まれ持つ「欲」」を挙げておりますが、これは如何に?三大欲求?生存本能?どっちも放棄する人間も存在しますし、痛覚を覚えないという障害もありましたね、たしか。彼らは人間ではないのか如何か。
あと、「「本質」と言えるかも知れない「動物」」という表現。人間の本質は動物ですか?そうですか。
そもそもあなたの思考の原点とやらは、一単語で表現可能なものばかりですね。
>文章の中で「」を頻繁に使う理由
掲示板の方でも指摘しましたが。文章の作法として、カッコでくくった言葉は、通常使われる意味とは違う内容を与えている、という意味です。
故に。通常使われる意味との齟齬があると感じるのであれば、それを言葉で定義づけてから、お使いになった方が読み手により良く理解されると思います。
>「姿を変える言葉」で論を展開する事は(中略)同時にそれだけ多くの人間に解釈される事になります。
コレ、意味不明です。何故、いい加減な定義の言葉が、多くの人間に解釈される事につながるのか判りません。姿を変える言葉は、言い逃れに使われるばかりです。
まともな人間なら読むのを止めますソレ。(つまり、僕はまともな人間じゃない事になります)
語の定義付けをするのは、限定する事で逆に先入観を除こうとする場合もあります。というか、先入観の排除をするために厳密な定義付けをする。
個人の経験や認識によってズレのない概念が存在しますか?ただ「神」というだけで、個々の先入観はあるはずです。それに、読み手の中に「神」の概念を持たない人が居るかもしれない事を想定していないことになる。
限界を与え、その論の中でのみ成立し得るものが、他の問題にも適用できる場合は山ほどあります。その時は、早い者勝ち。最初に、誰がその語を特定の意味で定義づけたものであるか、ということを明記の上で、その語を使って論じれば良い事。
普通(いや、僕の頭は普通じゃないんですが)に考えて、ある特定の神についてかたり、それが他にも通用すると考えるのならば、「ユダヤ教の神を『主』と表記する。『主』は裁きの神であり、これはイスラム教の神に通じるところがある」とでも書けば済む問題ではありませんか?この方が検証し易い。
それから。語の定義は、道具です。結論ではありません。どこをどうしたら語の定義付けが結論になるのかお訊きしたい。百科事典は結論の宝庫なのか。
論を展開する際に、使用する語や概念を定義づけておくというのは、下準備であり、そこで使われる語や概念は道具であり、結論ではない。
曖昧な定義でどの程度の論が書けるとお思いで?
>要約と極論
>「人間」とは唯一自分を「動物」と思っていない動物
これは一体どういう根拠の言葉ですか?誰の言葉なんですか、どこの引用?誰の思想?誰がこんな馬鹿げた事を?
>例として出された話
セクハラと取って良いですか?……というのは冗談です、たぶん。
僕は身体的には女なので、ホテルの一室で裸にされるんなら、相手は人間の男より猿の方が余程マシです。暴力的行為を受けずに済む可能性が高い。
「植物人間」と呼ばれた人たちと、ホンモノ植物の違いですか?それはその身体そのもの。
で、これらの例で何が言いたかったんですか? どうやら僕の「発端が同じなら総て同列に扱っていいのか」というコメの時のもじりの様ですが、意図がなんなのか全くさっぱり判りません。何が言いたいんですか?植物を人間並みに扱え、という事?猿と獣姦せよ、という事?発端は一緒なんだから、と?
そしてこの例は極論でも要約でもない。意味も意図も不明であるため。
要約と極論の違いは恣意性と共有不可能性だと、書いた覚えがあるんですが。極論の方が、恣意性が強く共有不可能性も高いと。
それから。社会の常識や教養とやらって、どこまで通用するんですか?地理的範囲は?社会的階級は?言語は?そもそも常識や教養って何なのですか?何を基盤に形成されているものなのですか?極論は、そうしたある特定の集団のさらに一部でしか教有されないようなくらい、共有不可能性が高いものだ、と思いますが。
概念については、すでに「極論は他者と共有できない可能性の強いものですが、概念は二人以上の人間の間で成立してるものではありませんか」(5/30の僕のコメ)と表記しております。今更、長々と仰られなくとも。
あ、それから、先の6/1の僕の質問への答えが、「利益の理解云々」と「言説の公で通用するや否や云々」しか見受けられなかったので、その他への答えも是非、おねがいしますね?
それでは。
- 2008/06/09(月) 20:40:11 |
- URL |
- 俊也 #JalddpaA
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